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かみさまの名前

*加筆修正版
りせにとっての「かみさま」と、その隣にいることを許されたひと。

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 菜々子のうつくしい心から生まれた楽園。彼女の兄を中心とした少年少女は、緊迫した面持ちで天上楽土をひた走っていた。
 考介の表情は不安になるほどいつもと変わらない。冷静に状況を判断し、的確な指示を飛ばして敵を屠ってゆく。しかし逸る心を抑えきれず、足が前へ前へと出ていることを、りせはカンゼオンの目を通して看破していた。
 早く、もっと早く――声にならない声が聞こえる。少女の真っ白な心に巣食うシャドウはどれも手強く、簡単には進ませてくれない。戦いを重ね、幾重にも傷を負い、精神力が尽きかけ、常ならば退く頃合になってもリーダーの足は止まらない。やがて着いてこられなくなった女子が遅れ始めたのを見て、陽介が相棒の肩を叩き、足を止めさせた。
「考介」
 振り向いた考介の瞳の奥には、燃えるような焦燥と憤りがあった。その眼光の鋭さに、離れた所から見ているりせでさえ本能的に戦慄がはしる。だが陽介は視線を逸らさずに、彼の顔をひたと見据えて言った。
「ちょっとペース速すぎだ。焦るのも、急がなきゃいけないもの分かってる。でも、俺らが倒れたら元も子もないだろ。菜々子ちゃんを助けられるのは、俺達だけなんだから」
 他のメンバーが固唾を呑んで見守る中、考介は幾度か口を開きかけては閉じることを繰り返し、やがて小さな声で「ごめん」と呟いた。伏せられた瞳、苦しそうに顰められた眉からは悔恨を感じる。彼の苦悩を少しでも和らげようかとするように、陽介は明るい声で言った。
「気にすんなって。なあ、今日はここまでにしとこうぜ。素材もかなり手に入ったし、明日、装備を整えてまた来よう?」
 特別捜査隊の参謀は、その年齢にしては随分と人の心の機微に敏い。軽妙なお喋りと華やかな外見から誤解されがちだが、本当は真面目で、やさしくて、頼りになる存在なのを、自分を含めた仲間達はちゃんと知っている。もっとも、迂闊な部分があるのは否定できないが。
 こういう時の気遣いで彼に勝る者はいないし、リーダーが最も信を寄せているのも彼だ。孝介に好意を抱いていたりせとしては悔しくもあるが、陽介に任せておけば安心だという思いもあった。案の定、険しかった孝介の表情が緩んだ。
 「…そうだな。皆もそれでいいか?」
既に体力も気力も限界に近かった皆は、一も二もなく頷く。張り詰めていた空気が緩み、帰還の準備を進める中、孝介は陽介に近寄って頭を下げた。
「ありがとう、相棒」
 (あ、珍しい)
盗み聞きをするつもりはなかったが、耳に入ってしまったものは不可抗力だ。陽介は聞いているこちらが恥ずかしいくらい臆面なく「相棒」という言葉を使うが、孝介がそう呼ぶことは少ない。陽介はその大きな瞳を軽く見開いた後、嬉しそうに微笑んだ。
「へへっ。なんか改めて言われるとテレるな」
彼が笑うとそれだけで空気がやわらかくなる気がする。つられたように、孝介にもしばらくぶりの笑顔が浮かんだ。
 (――!!)
だがここは戦場だった。カンゼオンが鳴らした警鐘に、りせは声を鋭くして叫ぶ。
「強いシャドウがすぐ近くで生まれたみたい、気配がする! 気をつけて!」
 言い終えるのとほぼ同時に、パーティーのすぐ後ろから赤く点滅するシャドウが姿を現した。テレビの中に打ち捨てられた心の暗部は尽きることを知らず、倒しても倒しても暫くすればまた沸いてくる。瘴気が吹き吐ける中、特別捜査隊は各々の武器を構えて戦闘体制に入った。
 すぐ近くで戦いが始まり、慌ててキル・ゾーンから退こうとしたりせだったが、彼女の退路に一匹のシャドウが立ち塞がる。落ち窪んだ眼窩に射竦められ、不覚にも足が竦んで動けなくなってしまった。
(! やばっ)
異形が体を震わせ衝撃派を放つ。咄嗟にカンゼオンを呼び出して衝撃を和らげるが、りせの体はまるで子供が飽きたおもちゃを投げ捨てるかのように、後方へと吹き飛ばされた。
「きゃあ…!?」
「! りせ!!」
 いち早く気付いた陽介が駆け寄ってくるのが見えたが、りせの体は既に空中回廊の手すりの向こう側にあった。立つべき地を失った体は、重力に従って落下を始め、天上から地上へと落ちてゆく。
 必死に伸ばした指と指が僅かに触れる。しかし掴めたのは空気だけだった。
「久慈川さん! ――花村先輩?!」
直斗の悲鳴に振り向いた考介が見たのは、風に溶けたハニーブラウンの軌跡だけだった。


 落ちてゆく。
 びゅうびゅうと空気が耳元で唸る。むき出しの耳が、顔が、切れそうなほど痛い。息すら上手くできない。風圧で体が折れそうだ。
 運が良いのか悪いのか、りせが投げ出された所は丁度吹き抜けのようになっており、下の階の床に叩き付けられることはなかったが、代わりに掴む場所もない。豆粒ほどだった最下層の花畑がぐんぐん迫ってくる。
(私、死んじゃうんだ)
 りせは恐怖に遠のきつつある意識の中で思った。前線には立たないが、自身の運命は考介達と一緒だ。絶望的な戦況で死を覚悟したこともあるが、仲間がいたから諦めずにいられたた。
 しかし今、りせの前に死が抗いようのない事実として訪れようとしている。どうやっても助からない。天国で迎える死――その矛盾がおかしくなり、彼女は目を閉じてくすりと笑った。
 「りせッ!!」
名前を呼ばれた気がして、少しだけ瞼を押し上げる。次の瞬間、視界に入ったものに心底驚き、りせは瞳を大きく見開いた。
「な…! 何で!?」
 すぐ側に陽介がいた。彼は動転するりせを抱き寄せ、目の前に現れたカードが流されないうちに握り潰す。現出したスサノオは、主の願いに応えて切り刻むためではなく守るために風を吹かせた。二人を包むように風が渦巻き、完全には止まらないまでも落下のスピードが遅くなる。
「すごい…!」
 細いが自分よりは遙かに力強い腕の中で、りせは感嘆の声をあげた。飛んでいる。まるで鳥のように、機械の力を借りることなく宙に浮いているのだ。
 差し込む七色の光、ふわふわの雲、どれを取っても幻想的で心を奪われる光景を間近に、りせは束の間状況も忘れて見入った。尊敬の眼差しで陽介を見やれば、彼はきつく眉根を寄せてスサノオを呼び続けている。形のよい額を流れる脂汗、どんどん白くなってゆく顔色に不安を覚え、りせは思わず陽介を視た。
 「!? だめっ、そのまま続けたら、先輩が…!」
りせのような支援タイプなら話は別だが、陽介や他の皆のように直接力を行使するペルソナは、長く具現化しすぎると宿主の体に負担がかかる。先程までの探索で、陽介の精神力は既に空に等しい。最大級の疾風呪文に匹敵する風を出し続けられる力は残っていない。りせの目には、陽介が文字通り命を削ってペルソナの召喚をしているのが視えた。
 だが陽介はスサノオを還そうとはしない。言い募ろうとしたりせに、彼は普段からは想像もできないような鋭い声で一喝した。
「黙ってろ!!」
「っ!」
黙るしかなかった。どのみち陽介が風を呼ぶことを止めたら、二人の死は免れない。りせは己の無力さに強く歯噛んだ。
 やがてゆっくりと地面が近付いてくる。天上楽土の最下層、楽園の名に相応しく、豊かな緑と花々、清水を湛えた泉がある庭園に二人は降り立った。
 地表から数メートルの高さに達した所で、陽介が限界とばかりにスサノオを消す。二人はそのまま地面に叩きつけられたが、生い茂る下草とその下のやわらかな土がクッションとなり、さほどのダメージは負わずに済んだ。
 りせは痺れる体を叱咤して、少し離れた所に倒れ伏している陽介の元へと駆け寄る。
「花村先輩、先輩! しっかりして!!」
衿から覗く首も、袖から覗く首も、くやしいほど細い。だから余計に不安になる。
 意識のない人間の体はとても重かったが、なんとか仰向けにし、震える手で頚動脈に触れて命の鼓動を確かめる。生きている。しかし脈拍は弱く、その顔色は今や死人のように青ざめていた。整った顔はまるで人形のように冷たく、恐れを増長させる。りせは陽介の頭を膝に乗せ、すう、と息を吸い込むと、もう一人の自分を呼んだ。
「――カンゼオン、お願い…!」
 全てを見通す菩薩の名をもつ女神が、その長い腕で二人を包み込む。りせは癒しの波動を極限まで高め陽介に注ぎ込んだ。だが限界以上に力を行使したダメージが体を蝕んでゆく方が早く、微々たる回復では追いつかない。何かアイテムはないかとポケットを漁るが、前線に立たないりせは探索前に陽介からもらったのど飴くらいしか持っていなかった。
 じわり、と涙が滲む。
(なんで私には、雪子先輩やクマみたいな力がないの?!)
 嗚咽が喉元からせり上がり、しゃくりあげそうになるのを必死に堪え、彼女は波動を送り続ける。その甲斐あってか陽介の頬に僅かだが色が戻り始めた。りせが固唾を呑んで見守る中、男にしては長い睫が震え、色素の薄い瞳が顕になる。
「……りせちーの、ひざまくら…」
「――ばかっ!」
 りせは半ば本気で怒鳴った。安堵のあまり涙がひとつ、ぽろりと零れる。
「ばか、ばか! 何格好つけてるのよ!! 死んじゃうところだったんだよ?!」
「男には、カッコつけないといけない時があるんだよ。りせはカワイイ後輩だから、守らなきゃいけないの。無事に助かったんだから結果オーライってことで」
 陽介は口をきくのも辛そうだが、それでもりせを安心させるようにいつもの茶化した口調で言う。こんな時でさえ気遣いをする彼に、りせはたまらない苛立ちを覚えた。何故、この人はこんなにも他人のことばかりで自分を大切にしないのだろうか、と。
 昂ぶる感情のままに声を発しかけたが、頭の中で警笛が鳴り、反射的にアナライズを始める。開け放たれた空中庭園の扉、そのすぐ向こうにシャドウの影が見えた。
 最下層の敵だ、強くはないが陽介はまだ動ける状態ではなく、自分は戦う力を持っていない。体の強張りを感じたのか、陽介がようくといった体で起き上がる。
「! 先輩、まだ動いちゃダメ!」
制止するが、振り返った陽介はいつものように「サポートよろしく」と言い残し、いつの間にか抜刀していた双剣を手に駆け出した。彼の顔は紙のように白かった。
(だから、どうして…!)
 りせはまた滲みだした涙を乱暴に拭い、少しでも陽介の負担を減らせるようナビゲーションを開始する。
「――敵、三体。弱点も吸収・無効属性も特になし、物理も魔法も有効だよ!」
「りょーかい」
 最も身軽なはずの彼の動きに、常の俊敏さと精彩はない。それでも陽介は、物理攻撃だけで敵を殲滅させることに成功する。敵から攻撃を食らう度、りせの心臓は止まりそうだった。
 異形が塵となり消えた後、その場に膝を付いた陽介に駆け寄り、りせは再び癒しの波動を送る。だが焼け石に水だ。
 先程の戦闘で頬と腕に負った傷はぱっくりと割け、中から生々しい肉を覗かせながら血を滴らせている。死人が動いているようなものだ。どれほどの苦痛かは計り知れないのに、彼は決して泣き事を言おうとはしなかった。
 「流石、に、ちょっと、ヤバイ、な。皆と合流、するか、入口まで、戻らないと」
切れ切れに言う陽介に、りせはひとまずハンカチで止血をしながら、カンゼオンの交信範囲を最大まで広げて仲間の気配を探った。クマが気付いてくれれば連絡が取れる。しかしまだ中層階にいるであろう仲間の気配は感じられず、代わりに何匹かのシャドウがここに近付いてくるのが分かっただけだった。
「…だめ、みんなには繋がらない」
「なら、入口まで戻るぞ。道案内は任せたぜ」
 ふらつく陽介に肩を貸し、りせはシャドウとの遭遇をできる限り避けるルートを選んで歩き出した。肩にかかる重みは、己を顧みずに自分を助けてくれた、不器用で優しい先輩の命の重さだ。絶対に手放さないと固く心に誓う。
 二人の歩みは亀のように遅かったが、シャドウとのエンカウントのないまま、徐々に入口に近付きつつあった。陽介はもう話す気力も残っていないのか、先程から黙ったままだ。りせはいつも彼がしてくれているように、努めて明るい調子で声を掛け続けた。
「花村先輩、あと角を二つ曲がれば――…」
 その瞬間、陽介の膝がかくり、と抜け、その場に崩れ落ちた。巻き込まれる形で転倒したりせは、真っ白を通り越して土気色になっている顔色に言葉を失った。もう動かせる状態ではない。焦る彼女の視界に、ちらりと黒いタールのような影が映った。シャドウだ。
 辺りを見回し、すぐ近くにあった開け放たれた扉へ向かう。既に気を失いかけている陽介を引きずるようにして小さな庭園の中に連れ込み、その細腕に必死に力を込めて扉を閉ざした。ごぉん、とやけに重々しい音が追弔の鐘のように楽園に響き渡った。
 ひとまず難を逃れた安堵に、りせはその場にへたり込む。今にも口から出そうなほど激しく脈打つ鼓動を静めるため、何度か深呼吸をして立ち上がると、花畑の上に横たえた陽介の元へ近寄った。
「花村先輩、ひとまずシャドウがいなくなるまで……せん、ぱい?」
 陽介は完全に意識を失っていた。りせが巻いたハンカチは意味をなさず、純白の布を真っ赤に染めただけでは飽き足らず、楽園の花々を鮮やかすぎる朱で濡らしている。薄く開いた唇は色を持たず、呼気が感じられなかった。死が陽介を連れ去ろうとしているのが見えた。
 「だめ! だめだよ花村先輩、しっかりして!!」
自らの手が汚れるのも厭わず、血を流し続ける陽介の傷口を直接圧迫する。脈は辛うじてあるが限りなく弱い。カンゼオンを召喚しようにも、今のりせにはペルソナを呼べるほど精神を集中することができなかった。
 いくら念じても、彼女を嘲笑うかのように青いカードは現れない。りせは顔を涙でぐちゃぐちゃにしながら叫ぶ。
「やだ、花村、せんぱい、死んじゃう、よぉ…! 助けて、月森せんぱい、せんぱい…!!」
 りせは唯一神の名を呼ぶように孝介を呼び続けた。見たこともない、いるかも分からないカミサマよりも、りせはいつだって手を差し伸べてくれた一つ上の先輩に救いを求めた。縋らずには、祈らずにはいられなかった。
 「っ!」
扉の向こうで物音と、いくつかの気配がする。ペルソナを具現化しなくとも、すぐ近くに何かがいるのが分かった。とうとうシャドウに嗅ぎつけられたのかもしれない。
 りせはのろのろと立ち上がり、陽介を庇うように彼と扉の対角線上に立つ。挑むように扉をきつく睨み据え、敵が姿を現すのを待った。
 非力な自分は盾にもなれないかもしれない、だが、神の名前を呼ぶことしかできない己とは違い、身を呈して守ってくれた彼を、一分一秒でも長く生かしたかった。
 何かが爆発したような音がした後、閉ざした扉が外側から開かれる。さあ、と新しい空気と共に光が差し込んだ。逆光の中、血塗られた剣を手に息を乱して入ってきたその人を、りせは本当のかみさまだと思った。
「先輩…!」
「りせ! …陽介!!」
 孝介は文字通り武器を放り出すと、陽介の横に跪き再生呪文を唱え出す。少し遅れて入ってきた雪子とクマが、代わる代わる癒しの光を注ぎ、彼の回りだけがまるで真夏の昼間のように眩くなった。
 「! おい、お前もケガ、してんのか?!」
真っ赤に染まった掌に気付いた完二が慌てたように言う。りせは涙に濡れた顔を隠そうともせず、ゆっくりと首を横に振った。
「私の血じゃ、ないよ。花村先輩が、守ってくれたから」
 完二はそれ以上何も言わず、代わりに綺麗にアイロンのかけられたハンカチを差し出してくれた。りせはそれに顔を埋めてまた少し泣いた。
 「ねぇ、何で花村、目覚まさないの?」
千枝が不安そうに尋ねる。体の傷は全て塞がったのに、陽介は目覚める気配がない。かといって安らかに眠っているようには見えず、まるで精巧な人形のような姿に誰もが不安を覚えた。直斗が思案顔で呟く。
「もしかしたら、精神力が減り過ぎているのかもしれません」
 孝介は返事もそこそこにポケットからスナフソウルを取り出すと、陽介の口元に押し当てる。しかし意識がないせいか飲み込もうとはしない。
 躊躇うことなく自らの口にそれを含むと、孝介は自らの唇を重ね、口移しで与えた。皆が固唾を飲んで見守る中、陽介の喉が小さく動く。孝介は親友の髪をそっと撫でて顔を離した。その仕草には隠しようのない慈しみが見えた。
 その時、りせは唐突に理解した。孝介は万能の神などではないと。できないことだって沢山あり、自分と同じように喜んだり悲しんだり、怒ったりする、人間なのだと。
 (私、ばかだ)
 能力がいくら突出していても、彼は一介の高校生でしかない。分かってはいたが、どこか絶対的な存在として孝介を信奉していた己の愚かさを突き付けられた気がした。
 理想を押し付けられ、盲目的な信頼を寄せられ、どれほど負担に感じていたかは計り知れない。それでも、やさしい孝介は、何も言わずりせのかみさまで在り続けてくれていた。幼稚な自分が恥ずかしかった。
 きっと、陽介は、陽介だけは、常に彼と対等であろうと努力していた。だから孝介も横に立つことを許したのだろう。
(敵わない、な)
 「………ん……」
小さな呻きをあげ、眠り姫が王子のキスで目覚めるかのように、陽介はゆっくりと瞳を開く。真っ先に視界に入った相棒の顔に驚いたのか、彼は少し目を見開いたが、すぐに安心するように体の力を抜いた。
「おはよう。随分な寝坊だな」
「悪ィ」
ちいさな声で謝る陽介に、孝介はやさしく頭を振る。
「りせも、お前も、無事でよかった。寝てていいよ」
 陽介は幼い子供のようにこくり、と頷くと、言われるままに瞼を閉じる。程無くして聞こえてきた健やかな呼吸に、孝介はそっと横たわる細い体を抱き上げ、帰還を告げた。
 トラエストの淡い光に包まれる中、りせは純白の地を汚した朱を見つめ続けていた。




 戻ってきたテレビの外の世界は、既に夜の帳が下りていた。
 男子が陽介を堂島家に運び込むため一足先に帰った後、沈むりせを心配そうに女子が囲む。彼女達の気遣いが嬉しくもあり、苦しくもあった。
 「りせちゃん…とりあえず、手、洗いに行こう?」
千枝に手を引かれ、大人しく歩き出す。テレビから出ても、陽介から流れ出た血が戻らないように、りせの手にこびり付いた血もそのままだった。
 乾いた朱は穢れの象徴のように黒く凝っている。けれども千枝も、雪子も、直斗さえも触れることを厭わない。りせはぽつりと呟いた。
「…皆、こんな思いをして、戦ってたんだね。私、ホントの怖さを分かってなかった。いつもいつも、守ってもらってた。今日だって、何にも、できなかった」
りせの言葉に、直斗がきっぱりと言う。凛としたその声は迷いを払うようだった。
 「久慈川さん、それは違います。人にはそれぞれ果たすべき役割がある。あなたのナビゲーションがあるから、僕達は戦えるし、前へ進めるんです」
「そうだよ。りせちゃんがいなければ、あの霧の世界を進めないし、敵の弱点も分からない。私達の誰にもできない、すごい力だよ」
 雪子がまっすぐな視線で返してくる。その黒曜の瞳は彼女の中身のように強くて綺麗だった。
 繋いだ手に力を込め、千枝が笑う。
「りせちゃんはりせちゃんの力で、あたし達をと一緒に戦ってくれてるよ。だからこれからも、一緒にがんばろう」
「………うん」
 ありがとう、と言って微笑めば、皆も笑顔を返してくれた。その温かさにりせはまた泣きそうになった。


 水に溶け、排水溝に流れてゆく朱。鏡に映る憔悴した自分の顔は、そのまま弱さの証明だ。
(強く、ならなきゃ)
 誰かに、神に縋らなくてもいいように。大切なものを自分の力で守れるように。
 手始めに、あの優しすぎる先輩にこれ以上世話を焼かれないように。りせはぱしん! と頬を叩いて気合いを入れると、彼女を待つ仲間の元へと駆け出した。



END

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