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「カミサマのいない神の庭」サンプル①

今回も捏造が激しいので、第一章まるごとあげておきます。いつもの如く陽介受難の始まりですよ!

---------------------------

 その日は寒く、冷たい雨が降っていた。
 精一杯伸ばした袖からはみ出した指は悴み、傘を持つ手が震える。剥き出しの顔に容赦なく吹き付ける風は氷の刃のようで、陽介はあまり意味がないと分かってはいても、首を竦め、制服のボタンを一番上まで留めた。耳あて代わりにヘッドフォンを耳に掛ければ、ほんの少しだけ寒さが和らぐ。
「うー、さみぃ!」
思わず呟けば、吐いた息がうっすらと白く凝った。十月にしては寒すぎる。あまりに大きな独り言に陽介は慌てて辺りを見回したが、自分以外に誰もいなかったことに安堵と、同じくらいの寂しさを覚えた。
 今日は土曜で、学校は半日で終わりだ。つい先日、ようやく回復した直斗が特別捜査隊に参入したため、早速テレビの中へ馴らしに入るかと意気込んでいたのだが、今日はリーダーの都合が悪いのだという。肩すかしを食らったかのような気分になりつつ、他の仲間の都合を聞いてみれば皆それぞれ用事があって、暇なのは陽介だけだった。落胆が面に出ていたのだろう、千枝と雪子が一緒に買い物に行くかと声を掛けてくれたほどだ。丁重にお断りさせていただいたが。
 今日に限ってジュネスからのお呼びもかからず、ポケットに突っ込んだ携帯電話は黙ったままだ。こんな時、いかに自分の交友範囲が狭いか――友人と呼べる存在が少ないかを思い知らされる。自らの暗部を受け止め、生まれて初めて本音で語り合える親友や仲間を手に入れても、人付き合いの下手さはそう簡単には変わらない。誰とでもそれなりに話すことができるが、それだけだ。誰かを傷付けたくはないし、何より自分が傷付きたくないから、臆病な陽介は笑顔の仮面を被り、深い部分には踏み込まないし、踏み込ませない。道化を装い、波風を立てずに人の輪に入って、するすると間を泳いでゆくことは得意だが、だからこそ自分は誰の印象にも残らず、いなくなればすぐに忘れられてしまう。決して誰かの「特別」にはなれない。
 そんな自分を、月森孝介は「特別」にしてくれた。弱さも愚かさも醜い部分も全てひっくるめて自分を認めてくれた。傍にいて欲しいと言ってくれた。
 陽介にとって、孝介は最初から特別な存在だった。同じ都会からの転校生なのに、自分とは違い排他的な稲羽の町にあっという間に溶け込んだコミュニケーション力と行動力。誰もが目を惹かれる顔とスタイルの良さ。加えて声もいい。部活とアルバイトを掛け持ちし、家事もこなしながら特別捜査隊を取り仕切るという超人めいた体力精神力。最初のテストでいきなり学年一位を取るほど頭がいいのに、驕ることもひけらかすこともしない性格の良さと、人を貶めない誠実さ。彼は謙虚というよりも、自分の言動に自信と責任を持っているのだろう。どれもが陽介には持ち得ない能力と美徳だ。
 かと言って孝介は頭が固いという訳ではなく、年相応に楽しいことが大好きで、陽介は一緒に馬鹿をやることもあれば巻き込まれて被害を被ることもある。完璧すぎないからこそ、彼は一層輝いている。テレビの中で全てを見られ、命を助けらたことも大いに影響しているが、陽介にとって孝介はヒーローだった。焦がれてやまない、けれども決して自分がなることは叶わない存在だ。
 魅力に溢れた孝介は、老若男女関わらず八十稲羽中から好意を寄せられている。そんな彼が自分を相棒として、恋人として扱ってくれている理由が陽介にはたまに分からなくなるが、彼の手を離すことなど陽介にはできなかった。関係はどうだっていい、ただ彼の一番近くにいたい。陽介が願うのはそれだけだ。
「…寂しいんだよ、バカヤロー…」
とどのつまり、陽介は最近多忙な孝介に構ってもらえず寂しいのだ。二度目の呟きはビニール傘に当たる雨粒と風の唸り声に掻き消され、陽介の耳にすら届かなかった。
 なんとなく音楽を聴く気にもなれず、プレイヤーを再生しないまま擦れ違う人もまばらな田舎道を速足に歩く。商店街と交わる大きな――稲羽にしては、だが――道路に差し掛かったところで見知った人物を見つけ、陽介は歩調を緩めた。菜々子だ。黄色い長靴を履いた少女は、片手にパステルピンクの傘を差し、もう片方の手には二つのビニール袋を下げている。何のロゴも入っていないそれは、おそらく総菜大学で買った総菜で、今日の堂島家の食卓に並ぶのだろう。その時、びゅう、と一際強い風が吹き、菜々子の小さな体が傾いだ。
「!菜々子ちゃん!」
慌てて駆け寄った陽介は、自らが濡れるのも厭わず菜々子の背中を支える。あからしま風が過ぎ去りると、菜々子はその大きな瞳をぱちりと瞬かせて陽介を見上げた。
「…陽介、おにいちゃん?」
「こんにちは、菜々子ちゃん」
にこり、と笑って挨拶をすれば、少女も笑顔を返してくれる。それだけで寒さが少し和らいだ気がした。
「買い物帰り?」
「うん。おひるごはんと、ばんごはん。きょうはね、ロールキャベツと、きんぴらゴボウと、おにくのコロッケなんだよ」
菜々子はビニール袋を見せて言った。友人達が暖かい家で家族と共に暖かい昼食を取っているであろう中、菜々子は冷たい雨の中を歩いて買い物を済ませ、一人で食事を取るのだ。堂島家の居間で、テレビを見ながらただひたすら兄と父の帰りを待つ少女の姿が浮かんで陽介は胸が苦しくなった。
 孝介がいれば、こんな天気の時に溺愛している妹を一人で買い物に来させたりはしない。幼い菜々子を一人にして出かけている相棒に陽介は苛立ちを覚えたが、しかしすぐその身勝手さに気づいて自嘲の笑みを浮かべた。普段から探索やら遊びやらで菜々子から兄を奪っているのは自分ではないか。
(アイツの代わりには、全然足りないだろうけど)
 陽介は腰を落として少女と視線を合わせる。
「菜々子ちゃん。途中まで一緒に帰ってもいい?」
風が徐々に強くなってきている。先程のような突風がきたら、その小さな体では傘を支えるのに精一杯だろう。幸いにしてしばらく先まで堂島家と花村家への帰路は同じだ。陽介の提案に菜々子は嬉しそうに笑って頷いてくれた。
「うん!」
「じゃ、その荷物持つよ。貸して」
幼いながらも自立心の強い菜々子は、戸惑いの表情を浮かべながら差し出された陽介の手とビニール袋を交互に見やる。小学校低学年の子供のする気遣いではない。陽介は「今だけお兄ちゃんのマネ、させて」と言い、いささか強引に荷物を奪うと、菜々子の背を押して歩き出した。
「…ありがとう」
「どういたしまして。にしても、寒ィよな」
 他愛もない会話を交わしながら、二人は堂島家への道を歩く。陽介は車道側、菜々子は歩道側だ。稲羽市の交通マナーは、正直なところあまり良くない。商店街の近くは他よりは車通りが多く、また、轍跡ができてしまっているため、泥水を引っかけられやしないかと車が通る度に陽介は内心ひやひやしていた。
「陽介おにいちゃん。きょうはクマさんは?」
「あいつはジュネスでバイトだよ。遅番だったかな」
「ほんと?きょうね、お父さんがはやくかえってこられたら、ジュネスに行こうって!クマさんにあえ…」
 菜々子の言葉を遮るかのように、悲鳴に似た甲高いブレーキ音が聞こた。弾かれたように顔を上げた陽介の視界いっぱいに、車のフロント部分が映る。
「えっ…」
車は意志を持っているかのように、陽介と菜々子に向かって突っ込んでくる。かなりの速さがあるはずなのに、何故かその動きはスローモーションのように見えた。頭はまだ状況を理解していないが、本能が危険を察知して陽介の体を突き動かす。彼は荷物と傘を放り出し、体中のばねを使って菜々子に飛び付いた。
 抱き込んで転がるか、突き飛ばすか――こんな時だというのに頭は意外と冷静で、冷静ゆえにそのどちらを選んでも、二人とも助からないのが陽介には分かった。凶器の幅が広すぎる。今からでは射程範囲外まで出られない。
(やばい、死ぬ)
覆せない死の予感に陽介は戦慄した。ここがテレビの中だったら仲間の誰かが甦生呪文をかけてくれるだろうが、生憎と現実だ。時速数十キロの速度で鉄の固まりに衝突されたら、生身の肉体はひとたまりもない。更に運の悪いことに、背後にはコンクリートの壁。車と壁に挟まれ、ぺちゃんこになってしまう。陽介はせめてもと菜々子の体を抱き込んだ。
(せめて、菜々子ちゃんだけは…!)

 『――喚べ!』

 頭の中で、聞こえないはずの声がした。苛立ちと焦りを大いに含んだその声は、急き立てるように同じ言葉を繰り返す。

 『いいから喚べ!二人とも死んじまうぞ!!』

 眼前にまで死が迫っている。もう迷っている時間はなかった。陽介は無我夢中で、テレビの中のようにもう一人の自分の名前を呼ぶ。
「っ、スサノオ!!」
主の願いに答えて現れた荒ぶる神は、あちらの世界で召還された時と同じようにその腕から凄まじい突風を生み出し、車の軌道を少しだけ反らしてくれた。しかし完全に回避はできず、車のサイドミラーが左の脇腹を掠る。たったそれだけでも衝撃はかなりのもので、陽介は吹き飛ばされ、ブロック塀に強かに打ちつけられた。
「ぐっ…!」
 ろくに受け身すら取れず、あまりの痛みと衝撃に息が詰まる。それでも陽介は菜々子の体を放り出さなかった。すぐ耳元で何かが砕け、ほんの少し後に、どぉん、という鈍い響きを感じた。車が塀にぶつかって止まったのだろう。澄んだ高い音はガラスが割れたせいか。そして悲鳴は誰のものか。菜々子のものでなければいいが。
 ずるり、と地面に崩れ落ちた陽介を、雨がじわじわと濡らしていく。遠退く意識と共に、何か大事なものが体から抜け落ちてゆく気がした。
(だめだ、行く…な…!)
何とも分からないそれに、陽介は必死に呼びかける。しかし呼び声は届かず、意識の糸と一緒に繋がりが切れたことを陽介は漠然と感じ、気を失った。

 


**********

 


 泣いている。
 誰かが枕元で泣いている。一瞬、幽霊の類かと思って陽介は身を竦ませたが、聞こえる泣き声は幼く、ただただ悲しみに満ちていて胸が締め付けらる。聞いている陽介の方が泣きたくなった。
(大丈夫だよって、言ってやんなきゃ)
 まだ体は起きたくないと言っているが、意志の力で欲求を撥ね退け、陽介は思い瞼を無理矢理押し上げる。急に差し込んできた白い光に目を細めると、嗚咽が止み、代わりに自分の名が呼ばれた。
「!よう、すけ、おにいちゃん…!!」
「…ななこ、ちゃん」
 そこには目を真っ赤にして泣き腫らした菜々子がいた。幾度か瞬きをしてピントのずれた視界を調整し、改めて辺りを見回せば、ここが病院で、自分はベッドに寝かされていることが分かった。建物に染み込んだ消毒液の臭いが鼻につく。体はやけに重くてだるく、至る所がずきずきした。特に左の脇腹が燃えるように熱くて痛い。必死に首を巡らすと、菜々子の後ろには孝介と堂島、そしてクマがいるのが見えた。皆一様に安堵を顔に浮かべている。
「ヨースケぇぇええええ!!!!」
目を潤ませながら飛び掛かろうとたクマの首根っこを、孝介が慌てて掴んで止める。
「クマ。陽介は怪我人だ」
「あっ、そうだったクマ!ゴメンナサイ…」
項垂れるクマの肩を気にするなと叩き、孝介はベッドに近付く。見上げてきた妹の頭に軽く手を置き、彼は陽介の顔を覗き込んだ。
「…陽介」
(あ、コイツ、泣きそう)
 孝介の表情は逆光になってよく見えなかったが、その端正な顔が歪み、本当に僅かだが声が震えているのが分かった。どうやらかなり心配を掛けてしまったらしい。そんな顔をする必要はないのだと伝えたくて、けれどもまだ口を動かすのが億劫で手を伸ばそうとした陽介は、自分の腕に管が繋がっていることに気付いた。点滴だ。細いチューブを辿ってゆくと、針が刺さった自分の手には包帯が巻かれていた。孝介が動くなとばかりに手を握る。
「もう点滴終わるな。今、看護師さんを呼ぶから」
 枕元にあったナースコールを押すと、程無くして医師と看護師が姿を現した。彼らは陽介の意識を確かめると、てきぱきと処置をしながら簡単に事情を説明してくれた。
「覚えてるかな?君は雨でスリップして突っ込んできた車に跳ねられた…というか、接触された、と言った方が正しいかな」
三十を少し過ぎたくらいの男の医師は、泣き止んだものの時折鼻を啜っている菜々子にやさしい笑みを向ける。
「君が庇ったおかげで、小さなレディには怪我ひとつないよ。よくがんばったね。まぁ君は代わりに全身打撲で暫くは笑うのも辛いだろうけど。アハハ。…にしても、君、ほっそいねぇ。の割にしっかりキレイに筋肉付いてるし。何かスポーツやってるの?」
「に、肉体系の、アルバイトを少々」
 陽介は内心冷や汗をかきながら適当な答えを返した。すぐそこに堂島がいるのだ、迂闊なことを言えばまた怪しまれかねない。医師は元よりさして興味がなかったのだろう、「もうちょっと食べて太った方がいいよ」とアドバイスをしてから、皆を見回して告げた。
「意識も戻りましたし、もう大丈夫でしょう。怪我は打撲と擦り傷、手首を軽く捻っただけですし、CTにも異常ありません。念のため今晩は入院してもらいますが、明日の午前中には退院できます。花村君の親御さんは…」
「あ、うちの親、昨日から出張でこっちにいなくて」
両親は半年に一度のエリア会議で、昨日から近隣の別店舗へ行っている。店長である父親は勿論のこと、今回は母親もパート代表として同行していた。陽介は慌てて起き上がり携帯電話を探そうとしたが、いつの間にか入院着に着替えさせられていて、制服の上着に入れっぱなしだった電話は見当たらなかった。動いた途端に脇腹が痛み、思わず呻き声を漏らした陽介を、堂島が落ち着いた声で制する。
「まだ寝てろ。ご両親には熊田から連絡してもらった。もう少しで着くだろう」
「じゃあ、花村君のご家族が到着されたら、また説明に来ますね」
 医師と看護師は、現れた時同様に素早く片付けを済ませて去ってゆく。彼らの背を見送った陽介は、ここが個室であることにようやく気付いた。急な搬送で空きベッドがなかったのだろう。
(個室って確か高いんだよな。まぁ、こっちは歩行者で右側歩いてたし、どう考えても百パーあっちの過失だし、相手の保険から出るからいっか…って)
陽介はベッドから少し離れた所で佇んでいた堂島に顔を向ける。
「堂島さん!あの、車運転してた人は…」
「ん?ああ、命に別条はないそうだ。もっとも、あっちは手と足を骨折して数ヵ月は入院だがな」
「よかった…」
 あからさまにほっとした表情を浮かべる陽介に近寄り、堂島は頭を下げた。
「!ど、堂島さん?!」
「花村。…ありがとう。お前がいなかったら、菜々子は…」
 不意に詰まった堂島の声に、陽介はいつか孝介から聞いた話を思い出し、息を呑んだ。堂島の妻、千里は、雨の日に車に轢かれて亡くなったのだ。しかも犯人は未だ捕まっていない。最愛の妻だけでなく、残された唯一の家族である菜々子までをも交通事故で無くすところだった彼の恐怖は計り知れない。居た堪れなくなり、陽介は慌てふためきながら言葉を重ねる。
「や、やめてくださいよ!俺もあの時は無我夢中だったし、二人共無事だったんで、気にしないでください!マジで!」
しかし堂島は頭を上げてくれない。いつもと違う父親の様子に、菜々子が心配そうな顔をしている。陽介は狼狽して傍らに立つ相棒に視線で助けを求めた。察した孝介がやわらかく叔父の名を呼ぶ。
「遼太郎さん。菜々子が心配してる」
「む…」
ばつが悪そうに、それでもようやく顔を上げてくれた堂島に、陽介は安堵の息を吐いた。堂島は頭を掻き毟った後、低い声で話し出した。
「お前、車が突っ込んできた時、咄嗟に菜々子を庇って転がっただろう。あと一瞬判断が遅れていたら、あと数センチ車の軌道がずれていたら、二人共助からなかったと交通課の奴が言っていた。奇跡だってな」
 その時、つきり、と陽介の胸が痛んだ。あと数センチ――その命の猶予を作ってくれたのは、スサノオだ。ペルソナ能力を得てからすぐ孝介と試したことがあるが、テレビの外ではペルソナを呼ぶことはできない。もう一人の自分の存在を身の内に感じてはいても、こちらでは彼らは決して出てこなかった。今回のようにペルソナが呼びかけてきたのも、現実世界で召喚できたのも、初めてのケースだ。意識を失う直前に感じた喪失感を思い出し、陽介はぶるりと体を震わせる。何かよくないことが起きる気がする。
「?陽介、具合悪いのか?」
心配そうに覗き込んでくる孝介に慌てて笑顔を見せ、陽介は頭を振った。
「ヘーキだって。んな顔すんなよ。…菜々子ちゃん、怖い思いさせてごめんな」
 先程から兄の横で黙ったままの少女に視線を合わせ、陽介は謝る。事故に巻き込まれたのは不可抗力とはいえ、目の前で知り合いに倒れられるというのは幼子にはかなり恐ろしい体験だろう。ましてや菜々子も、母親の死因は交通事故だと知っている。杞憂かもしれないが、菜々子が今回のことと母親の死を重ね合わせてしまい、そのやわらかな心を苛むことのないよう、陽介は精一杯元気なふりをした。菜々子は目元を擦りながら陽介を見上げる。
「陽介おにいちゃん、いたくない…?」
「ん、ダイジョウブだよ。俺、結構頑丈だからさ」
恐ろしく重い腕をなんとか動かし、陽介は少女の頭を軽く撫でた。菜々子はくしゃり、と顔を歪ませる。
「ごめんね、菜々子が、菜々子が」
「あああ、泣かないでくれよ、菜々子ちゃん。ほんとに俺、なんともないから。ね?」
眦から雫が零れるのを何とか阻止しようと、陽介は笑みを見せる。菜々子は安心したのか、泣くのを止め、小さな声で「ありがとう」と囁いた。その言葉だけで陽介には十分だった。
 コンコン、とノックの音が聞こえたかと思うと、勢いよく扉が開いて中年の男女が飛び込んで来る。陽介の両親だ。クマが顔を輝かせた。
「あ、パパさん、ママさん!」
「陽介!!」
彼らは息子に駆け寄ると、きゅう、と包帯だらけの体を抱き締める。恥ずかしさと痛みに陽介は大げさに苦情を述べた。
「いっ…!いてーから!俺怪我人なのよ?!」
「打ち身だけのくせに何大げさなこと言ってるの!さっきそこで先生にお聞きしたのよ!…とにかく、無事で良かった」
母親の声が、首に回された腕が震えていることに気付き、陽介は諦めたように力を抜いた。先に体を離した父親は、ベットの傍で所在なさそうに佇んでいるクマを手招きし、金糸の頭をわしわしと掻き混ぜる。
「クマ、知らせてくれてありがとう」
「パパさん…でもクマ、何もできなかったクマ…」
会議中の陽介の父に電話を掛けたのはクマだが、動揺して上手く説明ができず、途中で孝介が代わって状況と搬送先を伝えたのだ。項垂れるクマに「そんなことはない」と彼は笑う。その笑顔は驚くほど息子に似ていた。
 ひとしきり息子の無事を確かめた後、陽介の両親は堂島と孝介に向って深々と頭を下げる。
「いつも息子がお世話になっております。付き添いまでしていただいて、何とお礼を申し上げてよいやら…。ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
陽介の父は、息子と同じよく通る声をしていた。年相応の老いは見えるが、美中年と評して差し支えない整った顔立ちだ。身に纏う空気は暖かく、安心感があって、部下から慕われるよき上司であろうことが容易に想像できる。堂島は慌てて頭を振った。
「いや、とんでもありません。お礼と、お詫びを言わなければならないのはこちらの方です。もうお聞きかもしれませんが、花村くんは、うちの菜々子を庇ったせいで…」
「ちょ、堂島さん!」
菜々子を庇っても庇わなくても、自分が怪我を負っていたことには変わりない。だから気に病む必要などないのだと伝えたくて慌てて身を乗り出した陽介を、父親は目線だけで制した。彼はきっぱりと堂島の目を見て言う。
「まだよく状況が分かりませんが、事故は一瞬のことですから、陽介の怪我は菜々子ちゃんがいてもいなくても避けられなかったんでしょう。二人共無事なんですから、お気に病まれる必要はないです。寧ろ、怪我をしたのがうちの息子だけで、こんな小さな女の子が怪我を負わずに済んで、ほっとしています」
 陽介は父親が言わずとも自分の意を汲んでくれたことに心から感謝した。恐縮しきる堂島の緊張を解すように、どこか少女めいた美しさを持った母親がやわらかく言う。
「陽介は、月森くんと菜々子ちゃんのことが大好きみたいで、家でも二人のことばかり話すんですよ。大事なお友達が悲しむようなことにならなくて、本当に良かったです。これからも仲良くしていただければそれで十分ですから、このお話はこの辺りにしておきませんか?」
可愛らしく小首を傾げられ、堂島は降参とばかりに頭を下げた。
「…ありがとうございます。では、せめて事故の手続きのお手伝いをさせてください」
 大人達はロビーでコーヒーでも飲みながら、と病室を出てゆく。子供達だけになった室内で、孝介は財布から小銭を取り出し、クマに菜々子とジュースでも飲んでくるように言った。体よく二人を追い出し二人きりになった密室で、孝介はベッド脇に置かれたパイプ椅子に腰掛ける。
「陽介」
孝介の大きな手が、怪我に障らないようにやさしく、けれども確かな強さで陽介の手を包む。まるで祈りを捧げるかのように繋いだ手を捧げ持ち、彼は大きく息を吐いた。
「本当に良かった、無事で」
「…ごめんな、心配かけちまって」
孝介は顔を上げると困ったように笑った。端正なその顔には自分だけに見せる甘さと弱さがあり、こんな時でも陽介の胸は喜びに高鳴ってしまう。彼は椅子から腰を上げると、ベッドの端に腰掛け、こつり、と陽介の額と己の額を重ねた。
「そうやってすぐ謝るの、陽介の悪い癖だよ。…ありがとう、菜々子を守ってくれて。流石は自慢の相棒だ」
 孝介が面と向かって自分を相棒と呼んでくれる機会はそう多くない。嬉しくなって笑えば、固い表情をしていた孝介もようやく微笑んでくれた。
「明日、は学校は無理だよな。放課後、お見舞いに行くから」
「ん、待ってる。でも打撲だけだって言うし、んなにおおごとにしなくていいから…って、見た目は結構ヒドいな、こりゃ」
陽介はぺろり、と入院着の上を捲って見せた。内臓が入っているか疑わしいくらいの細い腹は、包帯でぐるぐる巻きにされている。車のサイドミラーが接触した左の脇腹には大判の湿布が何枚も貼られており、薄荷の臭いが鼻をついた。テレビの中で鍛えたおかげで付いた筋肉がなかったら、間違えなく肋骨が折れていただろう。孝介は痛ましそうに、包帯の上から平らな腹を撫でる。
 「これじゃしばらく動くのも辛いだろうな。…うん、責任取って、怪我が治るまで誠心誠意お世話させていただくきます。上から下まで、余す所なく」
にやり、と意味深な笑みを浮かべる孝介に、陽介は冷や汗が滲むのを感じた。月森孝介は有言実行の男だ。口に出したことは必ずと言っていいほど実現する。このままでは介助と称して何をさせられるか分かったものではない。
「いやいやいや、気持ちだけで涙出そうなほど嬉しいんで!遠慮しときます!」
「まあそう言わずに。とりあえず、下の世話かな?陽介、その手じゃ自分でできないだろ。オレが代わりに」
 孝介の手が明らかな他意を持って下肢に掛かる。いつものように抵抗しようとした陽介は、身動ぎした瞬間にはしった痛みに声にならない悲鳴を上げた。
「――ッ!!」
孝介は慌てて体を離すと、心底申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめん、ふざけすぎた。でも、怪我が治るまでフォローするっていうのは本当だから、あんまり無理するなよ」
「…今、無理させようとしたの、どこのどいつですかね…?」
 恨みがましい目で恋人を睨んでいると、病室の扉がノックされ、大人達とクマと菜々子が揃って帰ってきた。堂島家は引き上げるようで、家長に急かされ子供達は慌てて帰り支度を始める。
「それじゃ、失礼します。花村、お大事にな」
「じゃあ陽介、また明日。クマ、陽介のこと頼んだぞ。おじさん、おばさん、お休みさない」
「陽介おにいちゃん、おだいじにね!クマさん、ばいばい!」
 三者三様の挨拶を残して彼らは去ってゆく。気が抜けたのか途端に眠気が襲ってきて、陽介は痛む体を何とか動かして再びベッドに横になった。
「ヨースケ、おネム?」
「うん…悪ィ、すげー眠くなってきた…」
母親がくすりと笑い、やさしい手付きで掛布を治してくれる。窓の外は既に真っ暗で、大きな雨粒が地面や建物にぶつかる音が絶え間なく響いていた。この様子では今晩は雨が降り続くだろう。激しい雨音は耳障りなはずなのに、今の猛烈な眠気を妨げる要因にはならない。
「陽ちゃん、寝ていいわよ。明日の朝、また来るから」
「ん…」
母の言葉に相槌を打ったのとほぼ同時に、陽介の意識は闇に落ちて行った。

 


 次に目が覚めたら、辺りは真っ暗だった。
「あれ…?」
自分の置かれている状況が咄嗟に理解できず、陽介は頭を捻る。固い枕、糊の効きすぎたシーツ、やけにスプリングの効いたベッドは自室のものではない。消毒液の臭いと、視界に入る備え付けの家具から、陽介はここが病院であることを思い出した。
(俺、あの後、すぐ寝ちまったんか。親父達…はさすがにもういないよな)
 一晩だけの入院なので時計など持ち込んでおらず、今が何時なのかも分からない。目が冴えてしまった陽介は、あちこち痛む体を励ましながら起き上った。光源はドアにはめ込まれた曇りガラスからうっすらと差し込む廊下の非常灯だけだが、闇に慣れてきた目には十分で、枕元には電源が切られた携帯電話、ベッドサイドの棚にはペットボトルの飲み物と菓子パンが置いてあるのが見えた。思い出したように腹が鳴る。事故に遭ったのは昼食前だから、もう半日何も口にしていない。腹も減るはずだ。この気遣いは恐らく母親だろう。
「おかーさま、分かっていらっしゃる!」
 嬉々としてパンの袋を破き、大きく口を開く。途端に皮膚が引き攣れた感触がして頬に手を当てれば、そこにはガーゼがサージカルテープで貼られていた。女ではないので痕が残っても問題はないが、自分の顔が傷着くと嫌がる者がいる。孝介だ。顔でなくとも彼は陽介や仲間が傷付くことを極端に厭うのだが、以前テレビの中で頬に負った掠り傷を放置していたらかなり強烈な説教を食らった記憶がある。彼は普段は温厚だが、怒ると非常に怖いのだ。男として納得できないものを感じないでもないが、できればもう叱られたくない。気をつけようと思いつつ、陽介はひとまず目の前の食べ物に集中した。病院の売店で売っていたのであろう安っぽいクリームパンだが、今は無性に美味しく感じられた。
 スポーツ飲料のペットボトルを開け、一気に三分の一ほど飲み干してようやく落ち着いた陽介は、思い出したように携帯電話を手に取った。病院では電源を入れない方がいいのだろうが、今の時間が知りたい。
「あー…すぐ切りますんで、ほんとスンマセン」
病院関係者に謝りつつ、陽介は携帯電話の電源を入れた。組み込みのソフトウェアが起動し、待ち受け画面に表示された時刻は二十三時五十八分――〇時まであと二分。外では雨が降り続いている。今日もマヨナカテレビに何かが映る可能性が高い。陽介が見なくとも仲間の誰かが確認しているだろうが、事件に関する情報はできる限り拾っておきたいのだ。
 小さなテレビに向かい合って、その時が来るのを待つ。やがて時計が〇時を指し、ノイズ音と共に砂嵐が画面に映った。それだけだった。
「よかった…」
 陽介は知らず知らずのうち詰めていた息を吐いた。直斗の救出に成功してから、新たな人影がマヨナカテレビに映ったことはない。しばらくはテレビの中に救出に赴かなくても済みそうだ。しかし陽介は自分の安堵が、新たな被害者が出なかったことと、仲間に置いていかれずに済むことと半々であることに気付き、自嘲の笑みを浮かべた。この体では足手纏いになってしまうし、何より、孝介が前線メンバに入れてくれるはずがない。自分は彼の相棒でありたいから、いつだって彼と対等でありたいから、力量差をつけられる訳にはいかないのだ。
(早く、治さないと)
 腹が膨れると再び眠気が襲ってきて、陽介は大きな欠伸をする。随分と寝たはずなのにまだ寝足りない。考えなくてはいけないことがあったはずなのだが、今は体が欲するままに眠りたかった。携帯電話の電源を切り、飲みかけのペットボトルを棚に置く。しかし手が滑ってボトルが倒れそうになり、陽介は慌てて手を伸ばした。その拍子に棚の奥に置いてあったテレビの画面に指先が当たる。
「…?」
 陽介は違和感に動きを止めた。数拍の間の後、彼は恐る恐るテレビに触れる。包帯の巻かれたその手は、当たり前のように冷たい画面にぶつかった。それだけだった。
「……………マジ、かよ……?」

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