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「The Penultimate Truth」サンプル①

0章と1章まるごとです。

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 神と対峙したことのある人間はどれだけいるだろう。
 そもそもカミサマなんてものの定義は曖昧で――当たり前だ、誰も見たことがないのだから――ひどく抽象的な、形而上の存在である。特に信じるべき神を持たない現代の日本人は、信仰という対価を払わず困った時だけ縋りがちで、神もさぞかし迷惑しているに違いない。
 けれども、縋らずにはいられない時がある。絶望に打ちひしがれた時、人は藁にも縋る思いで神の名を呼ぶのだ。孝介とて幾度も心の中で叫んだことがある。カミサマ、助けて、と。そして何の奇跡も齎されない現実に打ちのめされる。信心が足りないとは考えない、ただ神がいないだけなのだろう。数十億いる人間がそれぞれ発する願いを聞き届け、叶えてくれる、全知全能かつ慈悲深い創造主が。
(この神様は、祈りなんて聞いてくれそうないけどな)
 二〇一二年三月二十日、月曜日。孝介が八十稲羽を離れる前日である。晦を前に晴れたはずの霧が突如として町に溢れ出し、自分達は本当の敵が別にいることを知った。そしてその敵は神だった。
「ちくしょう、やっぱ強えーな、カミサマは!」
陽介が疾風を放ち、その手応えのなさに叫ぶ。戦端が開かれてから随分と時間が経ち、それなりのダメージを与えているはずなのに、国産みの女神は一向に倒れる気配がなかった。
 イザナミはそのおぞましい巨体を悠然と中空に揺蕩わせ、地に這うちっぽけな自分達を見下ろしている。蓄積されてゆく疲労、擦り減ってゆく体力気力。今までの敵とは違う圧倒的な威圧感に、気を抜くと心が折れそうになる。けれども孝介は倒れる訳にはいかなかった。世界のことになんて責任を持てないが、自分には守るべき者がいる。仲間、家族、友人、自分を自分たらしめてくれた大切な人々。彼らを脅かすというのならどんな相手にだって立ち向かってみせる。
 「どうする、相棒」
孝介の右隣、いつもの位置で陽介は不敵に笑っている。彼の目には常と変わらぬ強い意思の色があった。ダンジョンのボスとは桁違いの強敵を前に、驚くほどいつも通りだ。その姿にどれほど励まされているだろう。戦場を一瞥すれば、陽介だけではなく他の仲間も誰一人として怖気づいてなどいなかった。全幅の信を乗せた七対の瞳に胸が熱くなる。自分は一人ではない。
(絶対に、勝つ。人間をなめるなよ)
確かに人は、自分にとって都合のよいものだけを見ようとする。だがそれが全てではない。どんなに辛くても、傷付いても、真実を求め、受け止めようとする者だっているのだ。少なくとも孝介が共に歩んできた仲間や家族はそうだった。
霧を望むなどという極論を勝手に人類の総意だと決め付け、押し付けてくる神になど負けられない。勝って、仲間と共に未来を作ってゆくのだ。孝介はイザナミから視線を外さないまま、恋人であり、誰よりも頼りになる相棒に言った。
「正直、底が見えない。我慢比べになるかもしれないけど、できるだけ攻撃を食らわないよう、敵の体力を削ってくれ」
「りょーかい!」
『雪子先輩とクマにも伝えるね! がんばって!!』
りせの声が頭に響き渡る。孝介は剣を上段に構え直し、斬りかかろうとした。その時だった。
 「っ!?」
ぞわり、と空気が震えた。イザナミから昏い霧が、死の臭いが溢れ出す。孝介は本能的に悟った。あれは呪いだ。触れた者を黄泉の国へと引きずり込むものだ。呪言は指向性を持ち、真っ直ぐに孝介めがけて降りかかる。食らったら命はないと分かるのに、何故か足が縫い付けられたように動かなかった。
(だめだ、避けられない!)
「…させない!」
 凛とした声が聞こえたかと思うと、視界に何かが飛び込んで来る。さらり、と広がる黒髪に、孝介はそれが雪子だと知った。
「天城!!」
彼女はその細い腕を精一杯広げ、イザナミの放った呪を受ける。足元から現れた闇の触手に絡め取られ、か細い悲鳴を残して少女は黄泉路へ落とされた。
『雪子先輩?! いやぁああ!!』
りせの悲鳴が響く中、イザナミは更なる呪を放つ。今度こそ死を覚悟した孝介に、今度はクマが覆い被さった。
「クマ!」
必死に引き摺り出そうとするが、嘆きの手は得物を放しはしない。クマは顔の半分まで黄泉の国に飲み込まれながらも、孝介の横に向かって叫ぶ。
「ヨースケ! センセイを…」
最後まで言い終えることなく、青く丸いフォルムは消えた。
 地面はまるで何もなかったかのように平坦で硬質なものに戻っている。孝介は辛うじて刀を取り落とさなかったものの、目の前で起きた出来事を受け止めきれず、呆然としていた。
(オレの、せいだ)
仲間が、死んだ。自分を庇って。慌てて駆け寄ってきた陽介が何かを言っているが、それすらよく分からない。行き場の無い憤りに、爪が掌に食い込んで血が出るほど強く柄を握り締め、孝介は吐き出す。許してもいないのに眦に涙が浮かんだ。
「……何で、庇うんだよ…!!」
 今までの戦いでも仲間が庇ってくれることはあったが、その度に孝介はやめてくれと言ってきたはずだ。命を危険に曝されるのは己の力量不足のせいだし、何より、自分が助かるために仲間が傷付くのは嫌なのだ。甘いと言われようとも、孝介が孝介であるために曲げる訳にはいかないポリシーだったのに、それが今、最悪の形で覆されてしまった。こうなることを恐れていたというのに。
 孝介の嘆きをイザナミは甘美な蜜のように啜る。まだ戦闘は終わってはいない。力の戻らない孝介を守るように、陽介が一歩を踏み出した。彼は自分の斜め前に位置を決め、武器を構える。きっと彼も自分を庇うつもりだ。止めさせなければいけない。だが口を開くよりも早く、陽介は芯の通った声で言う。
「人間の可能性を見せてやるんだろ。さっさとアイツを倒して、天城とクマを助けてやろうぜ」
 イザナミの体が震える。来る。
「陽介。絶対に、庇うな」
孝介の言葉に陽介は笑って頷き、そして、孝介の代わりに幾千の呪言をその身に受けた。怨嗟の鎖が彼に幾重にも絡み付き、呪いを魂に刻み込むのを見た瞬間、孝介の意識は弾けた。




 気が付けば、世界は変貌していた。
 霧は消え、どこか懐かしいような美しい風景がどこまでも広がっている。狂気の消えた青い空、悠然と浮かぶ白い雲。色とりどりの花々に、青々と茂る緑、豊かな清水。まるで楽園だ。頭は未だ混乱しているが、神を退けたのだけは確かだった。
(勝ったんだ)
 喜びを仲間と分かち合おうと振り返った孝介が見たのは――眠るように花畑に横たわる陽介の姿だった。
「……陽介?」
どくり、と心臓が嫌な音を立てた。どうして彼は寝ているのだろう。だってついさっき、自分を励まし、背中を押してくれたではないか。イザナミを倒したことで呪いは解け、雪子も、千枝も、完二も、りせも、直斗も、クマも、皆ぴんぴんしている。なのに何故、陽介だけが目を覚ましていないのか。そんな青白い、まるで死人みたいな顔をしているのか。
 立ち尽くす孝介を押し退け、直斗が陽介に駆け寄って脈を取る。一瞬にして彼女の顔色が蒼白になった。
「脈がありません! 天城先輩、クマくん、回復を!!」
雪子とクマが弾かれたようにペルソナを呼び出し、癒しの光を注ぐ。けれども陽介の瞼は開かない。カンゼオンを通して陽介を視たりせが悲痛な声を上げた。
「…だめ、全然効いてない! 体温がどんどん下がってく、このままじゃ…」
直斗はちらりと孝介を見た後、役に立たないと判断したのか、すぐに視線を外して鋭く言う。
「天城先輩とクマくんは回復を続けてください。里中先輩は回復アイテムを片っ端から試して! 巽くん、脈を見ててっ」
「お、おう!」
 直斗は素早く気道を確保すると、陽介の胸の上に垂直に両手を突き、小柄な体の全体重を載せるようにして心臓マッサージを始める。完二は手首に手を当てて懸命に脈を探していた。アマテラスとカムイが幾度も幾度も祝福を与えるが、やはり効果はない。千枝は道具袋をひっくり返している。彼女らの言葉が耳に入っているのに、行動が目に映っているのに、孝介には理解できなかった。認めたくなかった、と言った方が正しい。
(だってこれじゃあ、まるで陽介が)
「これも効かない…! どうしよう、リーダー」
千枝が泣きながら縋ってくるが、それでも孝介は動けない。痺れを切らせたりせが詰め寄り、憤怒の形相で孝介の頬を叩いた。
「先輩、しっかりして! 呆けてる暇なんてないでしょう!! 花村先輩が、死んじゃうかもしれないんだよ?!」
「…っ!」
 死、という単語に水を掛けられたように頭が冷えた。孝介は震える足を叱咤して陽介に近寄り、必死に蘇生を施していた直斗の肩に手を掛ける。
「直斗、代わってくれ。息が止まってから何分経ってるのか分からない、人工呼吸を」
「っ、分かりました」
彼女の額には汗が滲んでいた。孝介は保健体育の授業でやったことを思い出しながら胸骨を圧迫する。三十回押すごとに直斗が二回息を吹き込み、それを何度繰り返しただろう。孝介が汗だくになり、アイテムは使い果たし、雪子とクマの精神力が尽きても、陽介の呼吸は戻らなかった。
 がくり、とクマがその場に崩れ落ちた。限界とばかりに雪子も地面に膝を突く。腕に力が入らなくなり尻もちをついた孝介は、一抹の望みを込めてりせを見た。彼女は無慈悲にも、ゆっくりと首を横に振った。
「………そんな……嘘、でしょ? りせちゃん」
千枝が震える声で問うが、りせは返事の代わりに嗚咽を漏らし始めた。それが口火だったようにあちこちで啜り泣きが聞こえ始める。
「花村センパイ、起きろよ! 何寝てんだよっ、アンタ本当に人騒がせな奴だな!!」
「花村、くん、どうして…?!」
「…花村、先輩…っ」
「なん、でっ、なんで、先輩だけ!」
「花村、そういう冗談は、よくないって。早く目ぇ、覚ましなさいよ…!」
「ヨースケ、早く起きて。今日は帰ったら、一緒にゴハンの支度を手伝う約束してたクマ! こんな所で寝てちゃ、ママさんに怒られるクマよ」
 皆が陽介に縋る中、孝介はのろのろと体を起こし、恋人の頬に触れる。すべらかな肌は氷のように冷たかった。僅かに開いた唇からは死の臭いがする。孝介は何故だか唐突に理解した、陽介の魂はここにないのだと。イザナミに黄泉の国へ連れて行かれてしまったのだ。
 もう届かないと分かっていながらも、孝介はいとしい人に語りかける。
「陽介。オレ達が勝ったんだ。終わったんだよ、今度こそ本当に、全部。だから、帰ってこい。頼む、から」
応えはない。長い瞼に縁取られた瞳は閉じられたままぴくりともしない。孝介は衝動的に彼の強張った肩を掴み、叫んだ。ざわり、と花々が恐れるように震えた。
「目を覚ませ!! 陽介!!!」
「月森くん、だめ!」
 力を失った頭が、腕が、がくがくと糸の切れた操り人形のように揺れた。止めようとした雪子を振り払い、孝介は尚も揺さぶり続ける。完二とクマに力尽くで引き剥がされても、孝介は陽介の名を呼び続けた。
「陽介…! いくら未来が拓けたって、お前が、いなきゃ、意味がないんだよ!!」
楽園に慟哭が響き渡る。孝介の想い描く未来には、どこにだって陽介の姿があった。幼いなりに将来の約束だってした。陽介が孝介の全てではないが、大きな割合を締めているのは確かだ。彼が笑っていられる世界を作りたかったから、彼と共に生きる世界を守りたかったから、自分は戦い続けることができたのに、要を失っては存在意義すら分からなくなってしまう。
(陽介)
彼の笑顔が、泣き顔が、様々な表情が、共に過ごした時間の記憶と共に蘇る。ありふれた会話を、何気ない触れ合いを思い出すだけでいとおしさが溢れてくるのに、もう彼はいない。ここにあるのはただの肉の器だ。はきはきした、孝介の大好きなテノールで名前を呼んではくれないし、触れてもくれない。こんな形で彼を失うだなんて考えもしなかった。
 孝介はきつく拳を握り締めた。爪が肉に食い込み、皮が破れて血が出たが、そんな些細な痛みでは冷静にもなれはしない。物言わなくなった情人を、そして楽園を睨み、孝介は全てを呪う。
(許さない、許せない。イザナミも、オレ自身も)
裏から糸を引いて自分達を苦しめただけでは飽き足らず、一番大切なものを奪ったあの女が憎い。だが、魂を刈り取ったのがイザナミの呪いであっても、そもそも孝介に十分な力があれば庇われずに済んだはずだ。彼の命と引き換えに生かされている自分を許せるはずなどない。
 ぽたり、と手から滴り落ちた朱が園生を汚してゆく。孝介は髪を振り乱し、神の消えた虚空に向かって吠えた。
「こんな結末、認めない! 陽介のいない世界なんて ――いらない!!」
 ぐにゃり、と景色が歪む。涙のせいかと思ったが、急に酷い耳鳴りがし始め、意識までもが遠退いてゆく。体が、心が引き千切られるように痛いのに、意思を留めることができない。苦しみに何故だか既視感を覚えつつ、孝介の記憶はそこで途絶えた。耳の奥で扉が重々しく閉じる音がした。







 ゴトンゴトン、ガタンガタン――座面から伝わってくる程良い振動にゆるゆると覚醒を促され、孝介は目を覚ました。
「……ん…」
視界に入って来たのはオレンジ色の光と、ボックス席の向かいの座席だった。この一年の間に幾度も使った稲羽線の車内だ。相変わらず空いていて、車両に自分以外の乗客の姿はない。流れてゆく緑の多い景色にも見覚えがある。八十稲羽の隣駅の東稲羽を通過してすぐくらいの所だろう。
 窓から差し込む西日は、時刻が夕方であることを教えてくれる。特に何も考えず時計を見ようと左腕を上げた孝介は、制服の袖口を見て何故だか違和感を覚えた。何かが違う。その理由を考えようとした孝介の頭の中に、数々の情景が奔流となって流れ込んできた。
「――!」
思わず席を立ったが、カーブで車体が傾き、よろけて席へ戻らされてしまう。長寛な風景を呆然と眺めながら、孝介は自らに問いかけた。
(オレはどうして、ここにいるんだ?)
 自分は仲間と共に最後の戦いの場となった黄泉比良坂の最深部にいたはずだ。だが自分はどう見ても電車に乗っている。ここもテレビの中なのかと腕時計を見たが、文字盤の上では秒針が忙しなく動いていた。あちらの世界では全ての電子機器が停止する。ということは、孝介がいるのはテレビの外だ。
 一瞬、夢かもしれないと考えたが、それにしてはあまりにもリアルだ。太陽に温められた少し埃っぽい春のにおいも、シートの毛羽立った手触りも、足元から感じる揺れも、何もかもが虚構にしては現実味がありすぎる。古典的とは思いつつ、試しに手の甲を抓ってみるが、痛みを感じはするものの何も変わらなかった。一度目を閉じ、開いてみても、やはり変化はない。孝介は額を押さえ、唸った。
(夢を見ていたのか? それとも、今が夢なのか? 皆は、陽介は)
懸命に記憶の糸を辿るが、どうしてもあの最悪のシーンから先が思い出せない。花畑の中に横たえられた恋人の躯を思い出し、背筋をぞくりとしたものが駆け上がる。あれが夢ならばそれに越したことはない。だが、あの時感じた埋めようのない喪失感と絶望も夢だったのだろうか。
 孝介は恐る恐る右手を持ち上げ、掌を見た。傷はどこにも見当たらないのに、指先にはまだ死の温度が残っている。最期の情景を思い出すと冷や汗が噴き出し、心臓がばくばくと脈打ち始めた。叫び出したい衝動を抑え、孝介は大きく深呼吸する。そして戦いの中で幾度も仲間に言い聞かせた言葉を自分に向けた。
「…落ち着け。冷静になれ」
震える手でポケットから携帯電話を取り出す。先ずは現状把握だ。一刻も早く陽介の安否を確認したい。それに、万が一孝介の記憶が混濁していたとしても、仲間の誰かが正しい解を持っているに違いない。だが、待ち受け画面に表示された文字列を見た途端、孝介の中の不安が恐怖に変わった。二〇一一年四月十一日、午後五時二分  ――電波で正しい時間に自動調整されるはずの携帯電話は、そう言っていた。
(どういうことだ?)
 自分達が黄泉比良坂に突入したのは二〇一二年三月二十日だったはずだ。しかし、携帯電話が表しているのは、奇しくも孝介が稲羽にやって来た日である。ただの故障にしては出来過ぎている。あの時も丁度、これくらいの時間に電車に乗っていた。まさか一年前に戻ったとでも言うのだろうか。
 孝介は慌ててボタンを操作し、メールを確認する。だが受信トレイの一番上にあったはずの陽介からのメールはなく、それどころか全てのタイムスタンプは二〇一一年四月十一日以前になっており、差出人も今となっては滅多に連絡を取っていない東京の友人ばかりだった。特別捜査隊を始め、稲羽で親しくなった人々からの便りは一通もない。それどころか電話帳への登録もない。メモリーにある稲羽の住人は、堂島家の固定電話と遼太郎の携帯電話だけだ。
(これじゃまるで、本当に、一年前に戻ってしまったみたいじゃないか!)
 孝介の動揺をよそに電車は減速を始める。聞こえてきたアナウンスは、やはり一年前に聞いたものと同じだった。
『次は終点、八十稲羽、八十稲羽です』
孝介ははっと頭上を見上げる。荷物棚の上には黒いスポーツバッグが載っていた。引き摺り降ろしてファスナーを空けると、数日分の着替えやら学用品、それに親に持たされた手土産が出てくる。そのどれにも見覚えがあった。引っ越すにあたって荷造りをした際、すぐ使うものだけを自分で寄り分けたのだから。
 電車がホームに入線する。稲羽線は八十稲羽が終点だ、すぐに車掌が来て追い出されてしまう。ひとまずファスナーを閉め、下車の準備を始めた孝介は唐突に理解した。先程の違和感の正体は、制服が綺麗すぎることだったのだ。特別捜査隊の活動では制服を戦闘服代わりにしていたため、汗や埃や血でどろどろになり、時には擦ったり破ったりして、かなり傷んでしまっていた。だが自分が身に纏っているものは新品同様で、糊が効き過ぎていて動きにくいくらいだ。それだけではない、掌も柔らかすぎる。部活動のバスケットボールと、探索で剣を握り続けたせいで皮は分厚く、硬くなっていたのに、今の自分の手は苦労を知らない都会の子供そのものだ。
 状況証拠が揃い過ぎている。それでもにわかには現実を受け入れられず、孝介はいるかも分からない神に祈りながら電車を降りた。歩き出した途端、どうしてか上手く歩けず段差に足を取られて転びそうになる。今度はすぐに理由を思い当たった。想定していたよりも足が短いのだ。孝介はここ一年で数センチ身長が伸びた。体も重い。筋肉がない。
 数々の差異に恐々としながらも、数機しかない自動改札を潜る。過去の思い出と違わず、駅舎の外には四輪駆動車と大小二つのシルエットが見えた。
「――おーい、こっちだ」
大きく手を振る遼太郎と、その後ろに隠れるようにしてこちらを見ている菜々子。雄弁な少女の瞳には明らかな警戒心が浮かんでおり、孝介は打ちのめされた。兄と慕ってくれた従妹はこんな目で自分を見ない。あんなにも愛らしい笑顔を向けてくれたのに、今の彼女の態度はまるきり他人扱いだ。
(嘘だ)
頭ががんがんする。左肩に掛けた荷物の紐が食い込んで痛かった。自分はちゃんと歩けているのだろうか、顔が引き攣ってはいないだろうか。それでも吸い寄せられるように、孝介は二人の元へ歩み寄る。差し出された手を躊躇しながらも右手で握った。陽介の死で冷えた掌に、生きている人間の体温は熱いほどだった。
「おう、写真より男前だな。ようこそ、稲羽市へ。お前を預かる事になってる、堂島遼太郎だ。ええと、お前のお袋さんの、弟だ。一応、挨拶しておかなきゃな」
遼太郎の挨拶は明らかに初対面の相手に対するものだ。そして覚えがある。一言一句までは定かではないが、去年の四月十一日、やはりこの場所で孝介は初めて叔父と従妹と体面し、今の言葉を聞いた。
(やっぱり、今は、二〇一一年なのか…?)
 もはや証拠を否定するのは孝介の脳だけで、あまりにも多勢に無勢で自信がなくなってしまう。自分は長い長い夢を見ていたのかもしれない、そんな気さえしてきた。誰か一人でもいい、孝介の記憶が妄想ではないと肯定してくれたら――そう願いながらも、脳は回転を始める。ここが現実だという確証はない、けれども、夢だとも言い切れない。迂闊な言動は自分の評価を落とし、結果として動きにくくなる。もう少し様子を見ることに決め、孝介は他人行儀な挨拶をした。毎日のようにおはようとおやすみの挨拶を交わし、共に食卓を囲んだ家族なのに、今はまだ、ただの血縁でしかないのが堪らなく苦しかった。
「はじめ、まして」
「はは、オムツ変えたこともあるんだけどな」
遼太郎は苦笑すると、少女の背を押して前に立たせる。
「こっちは娘の菜々子だ。ほれ、挨拶しろ」
俯いていた菜々子はちらりとだけ孝介を見て、蚊の鳴くような声で「こんにちは」と呟く。そしてすぐに父親の背中に隠れてしまった。
「ははっ、こいつ、照れてんのか? …いてっ、ははは」
むくれる菜々子に膝を曲げて視線を合わせ、孝介は精一杯の笑顔を浮かべる。
「よろしくね、菜々子…ちゃん」
菜々子は顔を真っ赤にして、叔父のスラックスに顔を埋めてしまう。遼太郎は困ったように娘の肩を叩くと、二人の子供を促して車へと向かった。

 他愛もない話をしながら国道を走って堂島家へと向かう。辿った道も交わした会話も、思い返せば全て以前と同じだった。
 孝介は適当な相槌を打ちながら精神を集中し、心の中に住まわせた十二の仮面の気配を辿る。テレビの外では呼び出せないものの、これまでは確かに存在を感じられたのに、今は霞がかっていて波動を感じることすらできない。一体、自分の身に何が起きてしまったのだろう。
(でも、オレは生きてる。だからきっと何とかなる。陽介は)
もしこれが夢でないのならば、明日になれば陽介と千枝、雪子に会えるはずだ。まだ稲羽に来ていないりせと直斗はともかく、完二の消息くらいは掴めるだろう。彼らの無事も、記憶の有無もそこで判明する。だがどうしても我慢できなくなり、孝介は叔父に断って携帯電話を取り出し、一八四を付けて自分と家族の番号以外に唯一空で言える十一桁の数字を押した。
 コール音が続くが、彼は出ない。アルバイト中なのだろうか、それとも非通知着信だから無視しているのだろうか。一分以上は粘ったが、繋がる気配がないので諦めて終話ボタンを押下する。せめて一声だけでも聞けたら安心できたのに、より焦燥が高まっただけだった。孝介は膝の上に肘を突き、組んだ指の上に額を載せて息を吐く。家まで行けば陽介に会えるだろうが、今抜け出したら不審がられるに決まっている。思うように動けない状況がもどかしくてたまらなかった。
 やがて遼太郎は商店街の北側でウィンカーを出すと、角を曲がってすぐのガソリンスタンドに入る。車が止まらないうちに駆け寄ってきた店員が威勢のいい声で迎えた。
「らっしゃーせー!」
(!)
孝介は弾かれたように顔を上げた。男とも女とも取れる中性的な人物は、白に近い銀糸の髪を持っている。目深に被った帽子から僅かに覗いた瞳は紅玉だ。
(イザナミ…!)
 もし本当に一年前の出来事を繰り返しているのだとしたら、あれはイザナミだ。彼女は一住民になりすまし、そしてゲームの駒として孝介を選び、力を与えた。女神の一方的な言い分、間接的であっても家族や仲間にもたらした苦痛、何より、陽介を死に至らしめた罪を思い出し、腹の奥から沈静していた憤怒が沸き起こる。この不可解な事象も、もしかしたら彼女の恣意なのかもしれない。エンジンが切られるや否や後部座席から飛び出した孝介は、菜々子がトイレへ、叔父が喫煙所へ去ってゆくのを待ってから店員に詰め寄った。
「え、何? どうしたのキミ、そんな怖い顔しちゃって」
白々しいその態度に更に瞋恚の炎が上がった。孝介は雑魚ならば射殺せるほどの鋭い視線で仇を睨み付けた。
「どういうつもりだ、イザナミ。 これもお前の仕業なのか?!」
 名を言霊に乗せた瞬間、空気が変わった。
 彼女の足元から黄泉の空気が溢れ出し、ガソリンスタンドを中心に商店街を塗り替えてゆく。景色は全く変わらないのに別の場所になってしまったかのようだ。本能が危険だと警鐘を鳴らしたが、逃げ場などこにもない。孝介は冷や汗を掻きながらも真っ向から血の色の相貌を見据えた。仮初のイザナミはにたり、と、口が裂けそうなほど深く笑った。
「私はお前を知らない。でも、お前は私を知っているのだね。大方、私ではない私とお前の運命が交わったというところか。面白い」
「? 何を言って」
 す、と伸ばされた細く白い指が唇に封をした。イザナミは妖艶に微笑む。
「よぉくお聞き、あのお方の欠片を持つ人の子よ。何の因果かは知らないが、お前は時の迷い子だ」
イザナミが何を言っているのかが孝介には理解できなかった。だが神の放つプレッシャーは圧倒的で、口応えは許されない。彼女はいやに可愛らしく小首を傾げながら続ける。
「お前の知る私は、私ではない。私はお前を知らないからね。ここはお前のいた世界と同じであって、同じではない。故に、お前の問いに答えは持っていない」
謎掛けのような言葉により混乱が深まる。加えて、今の孝介は冷静さを欠いでいた。不測の事態に加え、最愛の人を殺した犯人が目の前にいるのだ。生田目というミスリードが事前にあったとはいえ、よく陽介は足立を前に取り乱さずにいられたものだと、今更ながら彼の強さに感心する。自分にはそんな余裕などない。リーダーだと皆が崇めてくれても、断罪と復讐を考えずにはいられない矮小な人間だ。孝介は絞り出すようにして呟く。
「納得なんて、できない。お前じゃないお前だとしても、お前は、オレの一番大切な人を、殺した!」
孝介は確信する。二〇一二年三月二十日で途絶えている自分の記憶は、夢でも妄想でもない。全て事実だ。でなければ真犯人の正体を覚えているはずがない。神の言っていることは理解しきれないが、少なくとも彼女が「イザナミ」であることだけは確かだった。そして、彼女によって陽介は冥府へ送られた。
(許さない)
 激昂する孝介とは対照的に、イザナミは静かだった。彼女は憐れみさえ感じさせる血の色の瞳を向けてくる。
「やれやれ、聞き分けのない子だね。魂ばかりがぎらぎらしている。しかしまあ、人間らしい。嫌いではないよ。お前は私に、何を望む? 私が殺したという者の黄泉返りか?」
そうだ、と即答しようとし、孝介は喉を詰まらせる。あちらの世界で、自分達は数え切れないほどの異形を滅した。常に命の危険は覚悟していたし、実際に死にかけたとも一度や二度ではない。殺らなければ殺られる、その心構えで突き進んできた。イザナミと戦った時も同様で、少なくとも孝介は神を殺すつもりで剣を振るったし、彼女も自分達を屠ろうとしていた。決闘のようなものだ。だからと言って陽介の死をお互い様だと割り切れなどしないが、ここでイエスと答えるのは卑怯な気がしてならなかったのだ。
 葛藤を見抜いたのか、女神は満足そうに頷く。
「人の心の動くさまというのは、幾千年経っても飽きぬものだ。お前が何処から来たにせよ、時の軸を越えるのは不可能だろう。それこそ神でもない限り、ね。そして私は与り知らぬし、手を貸してやる義理もない」
「つまり、元の場所には戻れないということか?」
「ふふっ。でも、その方がいいだろう? お前の大切な人とやらも、まだ生きているのかもしれないのだから」
 孝介は息を呑んだ。今が本当に二〇一一年四月十一日なら、当然ながら陽介はまだ生きている。それどころか小西早紀も、山野真由美も無事だ。花園に物言わぬ屍となって横たわる彼の姿を思い出し、孝介は身震いした。あの恐怖と絶望を回避できるのであれば、自分は何だってする。イザナミの言う通り願ったり叶ったりだ。鵜呑みにするのは危険だが、神は意外と嘘を吐かない。それに、皮肉にも仇であるイザナミは孝介が欲していたものをくれた。記憶の肯定だ。明確に是と言われた訳ではないが、彼女は孝介がここではない時空から来たのを否定しなかった。
 判断材料が全て揃い、結論が導き出される。自分はどうしてか過去へ飛ばされてしまった。しかもどうやら心だけが時を遡ったようで、体は当時のままだ。そして、神によれば戻ることはできないという。孝介はもう一度、稲羽の地で二回目の高校二年をやり直さなければならないらしい。
 話は終わったとばかりにイザナミが一歩退く。孝介は慌てて女神を呼び止めた。
「待て! お前はまた、世界を霧に包む気か?!」
ぴくり、と柳眉が動いた。孝介は自分の失言を知った。イザナミは孝介の全身をまじまじと観察し、言う。
「お前は、結末を見て来たのだね。成程、だから、か」
細い顎に指を当ててしばし考え込むふりをした後、イザナミは徐に口にした。動作の一つ一つがいやに人間くさい。
「既に賽は投げられた。止められるものならば止めてみせるがいいさ。だが、お前ばかりが先を知っているのは公平ではないね。そうだ、隠れん坊をしようか」
突拍子もない提案に孝介は眉を潜めた。流石に不親切だと思ったのかイザナミは説明を足す。
「お前が真実を求め続けるのならば、いつか私と対峙する時が来るだろう。だが、私はこの地のどこかに姿を隠す。人かもしれないし、物かもしれない。お前は私を探し、見つける」
「そんなことをして、何になるんだ」
「どうもしないさ。遊戯は少しでも楽しい方がいいだろう? 言っておくが、私が認めぬ限り霧は晴れぬよ。ああ、期限があった方がいいね。次の春までにしよう」
 稲羽を去る前日、菜々子の証言のおかげで自分はイザナミに辿り着くことができた。だが知られてしまった以上、彼女は周到に身を隠すだろう。つまり孝介は、事件を解決へと導きながらもう一方でイザナミを探さなければならない。難易度が飛躍的に上がってしまった。歯噛む孝介の頬を冷たい手がそっと包む。
「ふふっ、そんな顔をするものではないさ。折角の男前が台無しだ」
氷のような肌がおぞましい。振り払おうと孝介はイザナミの手を掴んだ。瞬間、電流のように何かが体に流れ込んで来る。
「っ…!」
「お前こそ、最後の駒に相応しい。力を授けてやろう。精々私を楽しませておくれ――」
 酷い目眩と耳鳴りに襲われ、孝介は呻いた。しかし苦しんだのはほんの数秒で、突如として責め苦から解放される。恐る恐る目を開くと、そこはガソリンスタンドだった。重く立ち込めていた狂気は霧散している。すぐ近く、イザナミがいたはずの位置では、大学生くらいの冴えない青年が緩慢な動作でフロントガラスを拭いていた。彼はありきたりな茶髪で、瞳も黒い。イザナミではない。
 必死に目を凝らし辺りを見回していると、菜々子が戻ってきた。幼い従妹はまだ警戒心を見せながら、それでも案じるように声を掛けてくれる。
「…だいじょうぶ? くるまよい? ぐあい、わるいみたい」
彼女に心配を掛けたくなくて、孝介は笑顔を作った。
「大丈夫だよ。ありがとう」
「ううん。なら、いいの」
やがて戻ってきた叔父も、孝介を見るや否や眉根を寄せた。
「おい、具合悪いのか?」
自分はそんなに酷い顔をしているのだろうか。大丈夫だと微笑む孝介に遼太郎は何か言いたそうだったが、説教の代わりに車へと押し込まれた。
「帰るぞ。今日は早めに休めよ」
 シートに体を預けた途端、どっと疲労と倦怠が襲って来る。瞼を閉じた孝介は、目を開いたら全てが夢であればいいのにと願わずにはいられなかった。




 夜になって雨が降り出した。買ってきた寿司とジュースでのささやかな歓迎パーティーを開いてくれたのも、途中で叔父が呼び出されたのも、何もかもが以前と同じだった。
 残された菜々子と居間で少し話をした後、孝介は割り当てられた自室に下がった。いくつかのダンボールが隅に重ねられた、まだがらんとしている部屋も、やはり記憶と変わらない。ずるずるとソファに沈み込み、孝介は深い深い溜息を吐く。ようやく一人きりになれた途端、張り詰めていた糸がぷつんと切れてしまった。もう一歩も動きたくない。
(本当に、一年前なんだ)
少なくとも陽介が無事であるのは分かったが、考えなければならないことは山積みだ。頭の中はぐちゃぐちゃで、あちこちに散らばる情報を噛み砕き、嚥下しきれていない。食事で糖分を補給したため少しはましになった気がするが、自分が平静には程遠いのが孝介には分かっていた。もう何も考えずに寝てしまいたいが、思考を止めるのもまた恐ろしい。やれることをやれる時に全てしておかなければ後で死ぬほど後悔する、そんな確信があった。
 (何故、オレは過去に戻されたんだ。これからどうすればいいんだ)
イザナミは、孝介が未来から来たのを否定しなかったが、何故巻き戻ったのかは教えてはくれなかった。見えない前途も憂わしいが、己の存在理由が認知できないのも同じくらい気懸りだ。人は意義を求める。孝介が既往の春に飛ばされた意味が分かれば、何をするべきか自ずと見えてくるだろう。もしかしたら帰還の手立てが見付かるかもしれない。
(オレには時を操る力なんてない。じゃあ、誰かがオレを過去へ送り込んだのか? 何のために?)
時の流れに干渉するなどという突拍子もないことができるのは、それこそ神くらいしか思い浮かばない。だが国産みの女神は関与を否定した。彼女以外の形而上の存在がいるのかもしれないが、孝介は把握していないし、イザナミでないとすると動機が全く想像できない。考えれば考えるほど分からなくなってゆく。孝介は髪をぐしゃぐしゃと掻き回し、原因究明をひとまずは諦めた。現状ではデータが足りなさすぎる。まるで霧の中を手探りで歩いているかのようだ。真実はどこにあるのだろう。
「真実、か」
 孝介はくつりと笑った。思えば自分はずっと、「真実」を求め続けているような気がする。事件の真相、霧の真因――いつだって真の姿が明らかになるのは一番最後だった。もし今回の件も二度目の高校二年生を過ごした後でないと辿り着けないのだとしたら、待たされ過ぎて発狂してしまうかもしれない。
(…とりあえず、できることからやっていくしかない)
 重い体を叱咤して腰を上げ、鞄から筆記用具と未使用のノートを一冊取り出して机に向かう。表紙を捲り、最初の一枚は飛ばして、次の見開きそれぞれ左端から数センチの所に垂直線を引いた。左側のページ、分かたれた領域の狭い方の一番上に、孝介はシャーペンで「四月十一日」と記す。線を挟んだその右側に芯の先を付け、一度手を止めて思量した。一回目の今日は何があっただろう。
 絡まった記憶の糸を解しながら、孝介は簡潔に一年前の出来事を書き下してゆく。八十稲羽に引っ越してきたこと、ガソリンスタンドでイザナミと握手をした際に力を与えられたこと、夢の中で霧に包まれた奇妙な迷宮を彷徨い、謎の影と戦ったこと――今思えば、あそこは黄泉比良坂で、相手はイザナミだったのだろう。そこまで書いたところで、孝介は重大な記載漏れに気が付いた。遼太郎が出て行ったのは、恐らく山野真由美絡みだ。彼女は警護に着いていた足立によってテレビの中へ突き落され、孝介の転校初日に死体となって発見された。犯行が行われたのは本日夕刻のはずだ。
(! さっきの電話は、山野真由美が行方不明になった報告か!)
 孝介はペンを机に叩き付け、立ち上がった。しかしすぐに力を失い、椅子に収まる。既に山野真由美はあちらへ落とされた後だ。テレビの中にはもう入れるはずだが、彼女を探し出せる保証はないし、こちらに戻る術がなければ自分も凶暴化したシャドウ達に殺されてしまう。行くべきではない。
「…っ!」
ダン! と拳を天板に叩きつける。手がじんじんと痺れたが、こんな痛みでは罰にもならない。自分はたった今、山野真由美を見殺しにしたのだ。直接手を下した訳ではないが、罪の意識が重く圧し掛かる。
(もっと早く気付いていれば。そうすれば)
だが、心の中でもう一人の自分が疑問を発する。気付いたところで自分に何ができただろうか。堂島に足立を外すよう提言したとしても、この地に訪れたばかりの高校生が何故事件を、配置されている警官までをも知っているのか不審がられ、逆に拘留されかねない。天城屋旅館に警告の電話を掛けるくらいはできたかもしれないが、携帯電話でも堂島家の固定電話でも履歴が残ってしまう。公衆電話を使ったところで簡単に割り出されてしまうだろう。日本の警察はそこまで無能ではない。結局、自分ができることはなかったのだ。
(そんなの、全部言い訳だ)
どう動いても孝介に不利益が返ってくる。だが、人の命を救える可能性はあった。それでも、自分は何もしなかった。これでは人殺しと同じではないか。自分と山野真由美には全く接点がない。法律的には何の罪にも問われないが、孝介にとっては不作為犯にも等しい。
 目頭が熱くなる。誰もいないのに孝介は歯を食いしばり、嗚咽を堪えた。独り、だ。まだ友と呼べる者は誰一人おらず、家族もただ同じ家で寝起きする共同体でしかない。どうしようもない孤独をと恐怖に、孝介は自分の肩を抱き締める。ぼたぼたと大粒の涙が零れ落ち、ノートを汚した。
「陽介」
ここにはいない相棒の名前を唇に乗せる。応えはないが、少しだけ救われたような気がした。孝介は縋るように幾度も幾度も彼の名を呼んだ。
「陽介、陽介」
彼がいたら、笑って「大丈夫だ」と言ってくれただろうか。それとも、「しっかりしろ」と怒られただろうか。いずれにせよ、不甲斐ない自分を窘められるのだけは間違えない。孝介はのろのろと上半身を起こすと、涙を手の甲で乱暴に拭う。鼻を啜って涙を引っ込め、ぱしん! と頬を自らの手で打ち、気合を入れた。
(目を背けるな。もう過去は変えられない、これからできることをするんだ)
 イザナミは人を試すのを止めるつもりはないと言っていた。自分以外に過去を共有する者がいても、いなくても、やらなければいけないことは変わりない。事件を解決し、イザナミを見つけ、倒すのだ。
 放り出したペンを握り、しわしわになってしまったノートに覚えている限りの記憶を写してゆく。直斗が言っていた、時間が経つにつれて情報に混じるノイズは大きくなると。正確な情報を得るためには、できるだけ早く、先入観や個人の思想を排除した上で、事実をありのままに記録するのが大事なのだと。余計な思考を挟まないよう、孝介は雨の音を聞きながらひたすらに手を動かす。やがて東の空が白んで来た頃、一度で全てを書き出すのは無理だと判断し、冷たい布団に入った。
 (どうか、無事でいてくれ)
無駄とは思いつつも、山野真由美の無事を祈りながら孝介は眠りに就いた。




**********




 どこかからピアノの調べが聞こえる。
「――ようこそ、お待ち申しておりましたぞ」
しわがれた声に意識が覚醒する。孝介はいつの間にか、青い調度で統一された部屋に立っていた。目の前にある応接セットのソファに腰掛けているのは長い鼻とぎょろついた目を持つ老人と、神秘的な琥珀色の瞳をした金髪の美女だった。イゴールとマーガレットだ。緩く握った手の内に硬い物を感じて開けば、何故か契約者の鍵があった。予定外のベルベットルームへの招待に驚く孝介に、マーガレットは意味深な笑みを見せる。
「初めまして、ではないわね。お久しぶり、と言った方がいいのかしら」
「!?」
息を呑むと、彼女は今度は声を上げて笑った。
「ふふっ。ここは時の狭間、どこの時空にも属さず、けれども繋がっている部屋。でなければ、鍵を持つものを迎えることはできないわ」
「あなた方は、オレが二〇一二年の三月二十日から来たのをご存じなんですね」
平然と頷く二人に力が抜け、孝介はその場にしゃがみ込んだ。イザナミよりも格段に力強い肯定だ。マーガレットが宙で指を掻くと、どこかからソファとお揃いのスツールが出現する。座るように促され、孝介は素直に従った。
 「ふむ…貴方が歩むべき道を見失っておられるのかと思い、早めにお呼び立てしたのですが、どうやら無用の心配だったようですな。流石は神に打ち勝つ力をお持ちの方だ」
イゴールの賛辞に孝介は頭を振る。
「やめてください。イザナミには勝っても、オレは大切な人を守れなかった。そんなんじゃ、いくら力があったって意味がない。それより、教えてください。どうしてオレは一年前に戻されたんですか? 陽介は、皆は、どうしてるんですか?」
逸る気持ちを抑えきれず、孝介は矢継ぎ早に尋ねる。マーガレットはひとつ息を吐き、主と視線を交わしてから徐に口を開いた。
「最初の質問にだけ答えましょう。貴方が戻って来たのは、貴方自身が望んだからよ。伊邪那岐の魂の欠片を持ち、伊邪那美を退けるほどの力を持った貴方の魂の強さは、既に神にも等しいわ。さながら現人神ね。その貴方が未来を持った世界を否定した。身に覚えがあるでしょう?」
彼女の言葉には少しの責める響きがあった。孝介はあの楽園で自らが口走った呪いを思い出し、青くなる。

 『こんな結末、認めない! 陽介のいない世界なんて――いらない!!』

 「そん、な。まさか、それだけ、で」
呆気なくもたらされた真実に言葉を失う。 確かに、孝介は世界を拒んだ。陽介がいないのならば意味がないと、本気でそう思ってしまったからだ。だが、只人が理すら歪ませたなど、己にそんな力があったなど、どうして考えられるだろう。
(オレの、せいだなんて)
過ぎ去った日に戻って来た意義など何もない、ただ彼の死に堪え切れず逃げてきただけだったのだ。愕然とする孝介に、マーガレットは冷静に言い放つ。
「そう、それだけで、よ。貴方の願いは叶えられ、世界は閉じ、振り出しに戻された」
 孝介は掌で顔を覆い、唇を噛んだ。今口を開いたらみっともない言い訳と埒もない嘆きを垂れ流してしまいそうだ。信じたくない、その単語ばかりがぐるぐると頭を回る。だが、何を信じたくないのかが自分でもよく分からない。陽介が死んでしまったことを受け入れたくないのか、自身の弱さか、苦も楽も密度の高かったあの一年をもう一度送らなくてはならない煩わしさか。頭の中は飽和状態でろくに思考が働かなかった。
 マーガレットの解に証拠はない。誤りだと決め付ければ心は楽になるかもしれないが、何の解決にもならないし、幾度も自分を導いてくれた彼女が虚言を口にするとは思えない。孝介を謀るメリットもない。
「っ、あ」
ずきん、と目の奥に痛みが走る。神経が焼き切れてしまいそうだ。耳鳴りまで起き始め、目元を押さえた孝介は、最後に扉の閉じる音を聞いたのを思い出した。あれは未来への出口が塞がれた合図だったのだと何故だか確信する。もう認めるしかなかった。
 女帝は孝介に更に追い打ちを掛ける。
「願いも、時の流れも、目には見えないから信じられないかもしれないわね。でも、事実よ」
彼女は暗に問い掛けている、見えるものしか、自分の都合のよいものしか信じないのかと。語句こそ違えど、マーガレットが言っている内容はイザナミと同じだ。頷く訳にはいかない。孝介は腹に力を込め、声帯を震わせた。
「…認めます。正直、理解したとは言い難いですけど、あなたが嘘を吐くとは思えませんし、オレにも思い当たることがありますから」
 孝介を一瞥したイゴールがゆっくりと話し出す。
「運命の輪はもう回り始めております。貴方が足を止めても、世界は歩みを止めないでしょう。戻ることもできません。貴方にできるのは、自らの意思で歴史を繰り返すか、あるいは、新たな道を切り開くか、どちらかでしょうな」
不意に自分が分岐点に立っているビジョンが浮かんだ。孝介さえ口を噤み、何も知らないふりをして以前の言動をなぞれば、恐らく結果は等しくなる。事件は解決し、稲羽を覆った霧は晴れるが、陽介は助からない。自分は彼のいない明日を回避したくて摂理を曲げたのだ、ただ繰り返すだけでは意味がない。選ぶべきは後者だ。
 だが孝介は危惧すべき点に気付いた。終着点を変えるためには、当然ながら経路も変えなければならない。だが、どのルートを選べばハッピーエンドを迎えられるのかは分からない。
振り返れば、あの一年は綱渡りのようなものだった。仲間に一人の欠員も出さず、よくも最後の戦いにまで漕ぎ着けられたものだ。菜々子が息を吹き返したのに至っては奇跡としか言いようがない。だから、ほんの少しでも道を違えれば、悲劇が待っているかもしれない。
 陽介の笑顔が脳裏に蘇る。特別捜査隊の面々の笑い声が耳に木霊する。菜々子の手のやわらかさを、叔父の掌の大きさと硬さを肌が思い出す。友人達との他愛のない会話、町の人々との何気ないやりとり、それらを一つでも失ったら、自分は果たして立っていられるだろうか。考えるだけで身が竦んだ。
(陽介を死なせなんかしない。でも、誰も失いたくない)
恋人が助かったとしても、他の仲間や家族が不幸になるのでは駄目だ。強欲だと言われようともそこは譲りたくなかった。
 自分にできるのだろうか、他者の人生を、時には命さえも左右する決断をする罪の意識に耐えることが。己の現在地も、選んだ方向が合っているのか間違っているのかすらも分からない、地図のない旅路を歩き続けることが。
 孝介は目を閉じ、爾今をイメージしてみる。山野真由美は無理だとしても、小西早紀や諸岡金四郎を助けられるかもしれない。菜々子と遼太郎を巻き込まずに済むかもしれない。それどころか、足立や生田目が罪を犯す前に止められるかもしれない。以前と全く同じ展開になる保証はないが、一度目の悪い点を改善していけば、最良の嚮後が作れるのではないか。
(やれるかもしれない。いや、やるしかないんだ)
長い長い葛藤の後、孝介は面を上げ、青い部屋の住人達を見据える。
「オレは、切り開く道を選びます。神じゃないオレにできることはたかが知れているけど、手の届くものは全力で守ります。誰も死なせはしない」
「その結果、独りで神に挑むことになっても、ですかな?」
「そうです」
この決断がどんな終末を招くのかは予想もできないが、選んだ以上は後悔したくない。マーガレットが金色の目を向ける。
「随分と欲張りね。もう、知らなかった、では済まされないのよ。貴方の選択が枝葉となって広がり、未来を決める。選んだ者と選ばれなかった者の命を背負う、その覚悟があるの?」
 彼女の忠言は、どんな戒めよりも重かった。それでも孝介ははっきりと頷く。自覚がなかったとはいえ、自分はもう既に取捨選択をしてしまっている。仲間を置いてきた。山野真由美を見捨てた。今更立ち止まることなどできはしない。
「――はい。ここは過去じゃない、可能性を持った世界です。前と同じでなくてもいい、皆が、陽介が、笑って生きていられる方向へ持って行きます。そして、今度こそ未来を一緒に作ります。もう逃げたりはしません。あんな思い、二度としたくない」
 (陽介)
心の中で名前を呼ぶ。彼と想いが通じたのだって僥倖だ。もしかしたらこの巡りでは相棒にすらなれないかもしれない。だが、彼が生きていてくれるなら何だって構わない。例え憎まれても、笑顔を向ける相手が自分でなくても、健やかに、幸せでいてくれるならばそれでいい。独りで逝かせたりなどしない。そのためならどんな困難でも乗り越えられる気がした。
 全書の守り手はふうと息を吐き、空気を和らげる。
「それが貴方の決断ならば、私達は見守りましょう」
「ありがとう、ございます」
例え手を貸してはくれなくても、孝介の境遇を理解してくれる存在がいるだけで心強かった。心からの礼を述べれば、マーガレットの指が優雅に全書を撫でる。すると皮張りの分厚い本から黄金色の光が立ち上り、孝介に向けて橋を作った。放物線を通って、あたたかくて力強いエネルギーが流れ込んで来る。ひとつひとつの波動には覚えがあった。
「これは…」
「貴方が最後に心の海に住まわせていた子たちが迷子になっていたら、預かっていたの。ささやかだけど、贈り物として受け取ってちょうだい。貴方の器は始まりの時に戻っているけれど、心の成熟は変わらない。だから、そのペルソナも自由に呼び出せるわ。引き出しの数は十二」
孝介は目を細め、身の内に宿った神や悪魔の魂の欠片を確かめた。今の自分の肉体には不釣り合いなほどの強大な力だ。やがて光が消えた後、マーガレットがにこりと微笑んで言う。
「全書からの召喚にも制限はないわ。お金は頂くけど、少しは割り引いてあげるから、必要であればまたここに来なさい」
常と変らぬ彼女の態度に孝介は苦笑する。彼女達に出会えて良かったと心の底から思った。
 指標を得た途端に眠気に襲われ、口を手で覆って欠伸をする。見咎めたイゴールが飄々と終わりを告げた。
「お疲れのようですな。今宵はこの辺りでお開きといたしましょう」
「お休みなさい、よい夢を」
二人の挨拶の余韻が消えると同時に、眠りの園への垂直落下が始まる。意識が完全に途切れる直前、見殺しにした女の絶叫を聞いた気がした。

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